気 呼吸法 気功研究会と廣川隆志 フレキシブルでパワフルな身体・慢性病の回復を!
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廣川隆志 略歴と現在
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気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんあことあったよ。 手前左が廣川(友人宅で)

手前左が廣川 (友人宅で)

廣川隆志 初めての感動

皆さん、ご自分の幼い頃の初めての大きな感動をしたことを覚えていますか?

私の初めての感動は、5歳になったばかりの頃のことです。呼吸法 気功教室では感じて動く身体、感動擦る身体をつくります。

私の家から、桐生市立南幼稚園への通園中の約800mの道程の真ん中あたり、初夏の朝の出来事です。
家から幼稚園までには、二本の自動車の通る通りを渡らなければ、なりませんでした。その、二本目の通りを渡ると、小さな花畑の中の小径を通って幼稚園へと通っていました。そして、ある、日差しの強い朝のこと、私の大事件は起きました。
ダリアの花が沢山、咲いていました。そして、小径のすぐ脇に咲いているダリアの花に、大きな黄アゲハ蝶がとまって、羽ばたきながらダリアの花の蜜をすっていました。両方の羽を拡げると、私の手のひらより、ずっと大きい黄アゲハでした。
私はその、黄アゲハを捕りたくなりました。そして、その、羽ばたいている黄アゲハに、そっと近づき、右手を伸ばして、一方の羽をつまむ様にして握りました。そうしたら、手のひらより、ズット大きな黄アゲハが獲れてしまいました。そして、片方の羽を私の小さい親指と人差し指、中指にはさまれて、必死にばたばた、羽ばたいています。始めて味わう、キアゲハの羽の感触!絶対逃がしたくない!私も必死でした。足は地につかず、気持ちは動転、自分には「まだ、出来ない!」と思っていたことが今、実現しているのです!
信じるも、信じないもない、今、私の手でつかんでいるのが、いままで、鳥が飛ぶ様に、幼かった私の上空を羽ばたいていた、あの、黄アゲハなのです。
「逃がしてなるものか!」この一念で、このお花畑の道を隔てて反対側にある、友人の家の隣にある八百屋さんに駆け込み、ビニール袋をいただき、その中にその、黄アゲハを逃がさずに入れることが出来ました。
この、無事、手の中の黄アゲハをビニール袋に入れた時の、感動は48年を経過した今でもしっかり、覚えています。先ず、生きた黄アゲハの羽の感触、手についた羽粉、バタバタと羽を動かす躍動感!絶対逃がしたくないという緊張感。そして、ビニール袋の中にこの、生きた、宝物が入った時、「もう逃げられないんだ。」という安堵感と同時に誕生した、「こんな事の出来た僕はスゴイ!」という、プライドらしき気持ち。この頃の、私にとって、目もくらむ様な緊張と弛緩。言葉ではとても言い現すことの出来ない。密度の濃いリアリティーと感動をこの事件は、小さな5歳になりたての私にもたらしてくれました。今、思い出すと何かキラキラしたものに包まれたような気がします。

そして、そのまま、幼稚園に行くのを忘れて、このお花畑で蝶々を追っていたら、幼稚園で私が家を出たのに到着しないことが、問題になり、父兄が、通園の道を探し、発見されるまでの約一時間の間、私は「蝶々と私の感動時間の中」で、もう一羽のアゲハ蝶を追って過ごしていました。そして、クラスの誰のお母さんか解らないおばさんに発見され、誇らしくビニール袋の中のキアゲハを見せたら、「こんな事して!悪い人に連れて行かれたらどうするの?!」と言われ、幼かった私は「全精力をぶつけて勝とった、夢とロマンの世界から、」幼稚園という現実世界へ引き戻されてしまいました。そして、大好きだった幼稚園の菊組クラスの中蔦先生がこの日から、三日間、の間「目線を合わすと、いつも、優しく微笑んでくれたのに、微笑んでくれませんでした。」この事だけが寂しかった。クラスや幼稚園の男の子達には「素手で黄アゲハを捕まえちゃうなんて、スゴイ!」と言われ、やっぱり英雄だったのに、何だかイマイチ,スッキリしない!・・・。冒険にリスクは付きもの!!・・・解ったのか?解らなかったのか?・・・。

そして、話はまだ続きます。

時間は過ぎて、小学校に入学して、1年2組のクラス担任はなんと、南幼稚園の菊組担任の中蔦先生のお母さんでした。同じく、名前は中蔦先生で娘さんから、私のことを聞いていて、「君が廣川君かい?アゲハチョウを手で生け捕りしたんだよね?スゴカッタネ!あと、金魚の絵上手だったねえ。入選したんだよね?」と言ってくれました。アゲハチョウの事件は英雄になったり、冷たい視線を浴びたりで、自分としたら、どう見たらいいのか迷っていました。しかし、お母さんの中蔦先生の,この言葉で、改めて、父兄のオバサンと大好きなクラス担任の中蔦先生の「冷たい対応」に少し落ち込んでいた私の気分が、プライドと宝物をもう一度、一緒にもらった様な、晴れ晴れとした気分に成れました。「やっぱり、僕はスゴイ!!」もう、この世にはいらっしゃらないかも解りませんが、「お母さんの中蔦先生、ありがとうございました。」ジャン ジャン。おわり。

呼吸法 気功の世界、私の師、西野皓三先生の言われる「偶然然の必然」はこの幼い幼稚園、小学校1年生と中蔦(なかつた)先生親子に指導されるということで、経験していた

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志 中学二年生 こんなことあったよ!? 中学時代の剣道の稽古前に日々走っていた、渡良瀬川の土手

中学時代の剣道の稽古前に日々走っていた、渡良瀬川の土手。
正面は両毛三山の一つ赤城山

中学三年生、同級生の中に悪ガキのSが居た。彼は小学5年の時、交通事故に合い、それ以降、入院やその後の治療などで、学校に来る日が少なくなった。中学に入っても、私の記憶の中に、1年次の彼の記憶はほとんどない。2年頃から学校に来はじめた。小学校の頃の彼は、チョイ悪程度で、友達も居たが、交通事故後の彼は、自分通す為なら、手段を選ばない、どうしようもない、悪ガキに変貌していた。私は、当時も大事なことは譲らない、ストレートな性格だったので、気にいらない事があったらしい。
昼の給食の終る頃だった。教室での片付けを初めようとした、その時、教室、正面左方向、(ほとんど死角)から空の牛乳ビンが、私の顔面、ほほのあたりに向かって、飛んで来た。私は無意識にその、ガラスの牛乳ビンをキャッチし、その時、Sがやった事がわかった。私の「あぶないから、やめろ!」と言う声でで、その場は治まったが…。
それから、1ヵ月程して、今度は、授業が終わり、掃除が始まろうという時、教室で私の真後ろから、Sが木製のイスを私の後頭部目がけていきなり、投げつけて来た。私はとっさに、そのイスを振り返る様ににして、両手で受け取り、大事には至らなかった。当時の木製のイスは、3〜4kg程あるものだった。Sは二度の試みの失敗に驚いたらしく、教室から逃げる様にして出て行った。その後この教室でのトラブルはなかった。

又、剣道の稽古で円陣ゲームというのがある。1対1で打ち合い、他のメンバーは円形に1対1の勝負を取り囲む。そして、1本決まった瞬間に、前からでも、横からでも、後ろからでも、打ち込んでいい1本勝負をするというもの。下級生との円陣ゲームでは、私は面をつけず、横からでも、後ろからでも対処できた。私は当時、自分の特殊能力だと思って居たが、9歳からのゆっくりした動きのジョギングが、日々の積み重ねにより、若い活性化した身体の細胞をつくり、この様な対処の出来る身体をつくっていた、と確信している。

呼吸法 気功で身体が出来てくると、心眼。真眼、身眼と呼ばれる物や事が身体を通じて見えるようなるが、初歩の身眼が何年かのゆったりしたジョギングで呼吸法 気功を稽古したように開いた様だ。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 県内の陸上競技のトップチームで生活

若さとは力を出しきれること。その時、
次の自己が現れる。

高校時代、県内の陸上競技のトップチームで生活。気持ちのセンターをこのチームに置いて過ごせたこと。これは私にとって大変幸せなことだった。そして、なによりも学んだ事、それは、練習やトレーニングを通じて「力を出し切ることの意味」でした。私達の呼吸法 気功のテーマの一つに「今、ここで力を出し切れる身体づくり」という事がある。自己の力を出し切ったとき、もっとやりたい何かが、自己の身体を通じて見えて来る。探していた何かに、近づけるということ、つまり、より、本当の自己に近づける。それは、呼吸法で「エネルギーは循環する。」「エネルギーは出さないと入ってこない。」ということに通じる。                       

そして、もう一つ、私がスプリンターとして、あるいは、投擲選手としての全国レベルの身体をつくるのに、高校の三年間では間に合わなかったが、浪人時代に1日わずか、一時間半弱のランニングやジャンプトレーニングで、100mは10秒台、ジャンプは走り幅跳びで7mと当時のインターハイ決勝レベルの力がついていた。高校入学時に最初にしたトライアルでは、100m13秒6だった、4秒近く縮めている。一日8時間近いトレーニングをし、社会や人生にも、興味を持ち始めて、いたので、睡眠時間もスポーツ選手としたら、平均5,6時間だったので、あまり、十分とは思わないが、とにかく、エネルギーに満ちていた。朝の目覚めも大変良かった。
これは、生命エネルギーを高めるには、私達の呼吸法 気功で言う、「緩めること。」と、「捻ること。」が必要だが、「緩めること」は、ジャンプやランで、「捻ることは」ハンマー投げで、少しずつ習得し、青春という若さによるエネルギーも当然あるが、その、同世代の選手達に比べても、身体のエネルギーレベルそのものが高まった、本当に疲れを知らない日々だった。

こんなことがあった。高校時代、陸上短距離の練習、トレーニングに明け暮れていたが、長距離もやってみたくなり、3年最後の自分に種目の大会が終わったら、9月10日頃、校内マラソンの準備の練習をはじめた。11月の中旬頃の校内マラソンには、全国レベルのチームのランナーが沢山いるので、どのくらいやれるか?準備時間は短いが、」やってみたくなった。

そして、マラソン大会当日、何よりも愉快だった事は。最後の自分の大会を終え。約2ヶ月、準備した、それは、13,6kmの校内マラソンの中間点近くで、起こった。駅伝メンバーのひとりが、「なんで廣川がここに居るんだ!?(全国レベルの長距離ランナーの俺たちに何で、短距離選手のおまえがついてこれるんだ?)の意。」と驚いていたこと。そして、ラスト3kmまで涼しい顔をして、そのまま、並走していったこと。あと1ヶ月準備時間がとれれば、十分、ゴール前で勝負出来る自信を実感したこと。そんな、楽しく、愉快な身体性が、この頃には身に付いていた。高校3年の終わりの頃でした。この時、明らかに身体のエネルギーレベルが向上したことを実感していました。この、エネルギーは計測できないので、体感することだけで判断するしかありませんが、持久力という能力の向上だけでは、わずか二ヶ月ではこのレベルの選手達に追いつくことは不可能、大本のエネルギーが向上したので、こんなことも出来た、と感じている。これは、呼吸法 気功の世界では一言、「身体性」だが、自在に事、や物に対処できる自在な身体にも通じる。とにかく愉快な出来事だった。          

「この3年間、炎の様に燃えて、本当にたのしかった。」と真正面から自分に言えたことが、なによりの高校時代の3年間でした。

そして、今、更に、呼吸法 気功で気を捉えて感じていること、それは
「若さとは力を出し切れること。そして、それは、年齢ではなく、生命エネルギーの循環の量によって決まる。」

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 身体を動かすのは楽しい

いろいろあったけど、やっぱり、
身体を動かすのは楽しい!

小学校低学年から中学、高校時代と目の前にあったSUPORTSを遊んできた。そして、身体は高校時代を終えて、浪人時代に100m10秒8と日本記録が視野に入ってきたレベルになった。また、やり投げで肩をいため、投げられなくならなければ、キング オブ スポーツと言われる十種競技で世界のプレーの舞台を追いかけていたかもしれない。しかし、「〜すれば」は無かった。このまま、プレーヤーとして、記録を追う事を自分が「良しと」しなかったのだ。

多少の人間としての視野の拡大もあったのだろう。スポーツが大好きだったから、その大好きなスポーツの存立する「舞台」である社会。そして、その、「舞台」で精一杯、「振る舞う役者」、人間が、視野に飛び込んで来たのだ。そして、「舞台」と「役者」にとりあえずの納得をしたかった。私は大学での生活に先ずそれを求めた。

「とりあえずの納得。」この事を第一順位にする事を決めた。自分を確認したくて、世界的な、あるジャンル哲学の教授に、ある概念について、それは違う!と論争を吹きかけたら、「君は面白いと、研究室にお茶を飲みに来てくれ!」と招待されたり、つまらなくて単位をおとした授業が今年も全く同じノートで同じ事をやっているのに、腹が立ち、去年と全く同じ事やっているんですけど、あなたは、それでも「プロの大学教授ですか?それともアルバイトの大学教授ですか?」と500人の学生の前で質問をしたら、何十年ぶりの新しい授業がはじまったり、とにかく、「とりあえずの納得」したかった。
そして、知識が拡がると、何が本当か?リアリティーの薄く成って行く自分がいる事に気づいた。「人間、社会これは、人間をやっている以上、ずっとくっついているんだ。」「図書館に答えを求めても答えはそこにない、」「このまま、行ったら焦点のない腑抜けの様な人間になってしまう。」大学三年秋のことでした。

これが、「とりあえずの納得。」でした。

そして、久々、自分の足で立ち、自分の気持ちで向かった「水泳」というスポーツの感触は新鮮でした。初めて、この社会人水泳チームの練習に参加して、泳いだ後の身体の感触は、今も、忘れない。11月の割合、涼しい日だったが、練習を終えて湯島のプールから、下宿のある小石川まで、涼しいと言うより冷たい風を切って、帰り、近所の食堂で夕食をとるが、体がポカポカ体が温かい。風呂上がりの様な状態がいつまでも続いた。これは陸上競技の動きにはない身体のジュクを横にして浮力中を、腕を前後に動かす為、内蔵が動き、身体が活性化して気 生命エネルギーが良く巡る状態になったため、このようになるのだ。今行っている呼吸法 気功の「基本動作」にも、関連する動きは沢山採用した。とにかく、今まで味わった事のない感触だった。「これは体にやさしい!」と直感した。とにかく、数年を経て、やっと、出会うべきものに出会えた安心を感じながらの日々がはじまった。しばらくの間、私の水泳練習とトレーニングは文京区立体育館がホームとなる。プールは25m6コース、昼は暗い。トレーニング場はトレーナーが、一人常駐していて、アドバイスをしてくれたり、やトレーニングパートナーとして、サポートの必要な時は、サポートをしてくれたりと比較的、いい環境のなかでスタート。私は、自分のスイムやトレーニングは、昼間のうちに週、4〜5日はほとんど貸し切り状態で行うことが、東京に居ながらできたので、環境としては、大変、恵まれていた。また、忍ばずの池にも近かったので、スイムで疲れた体をジョギングでほぐすことも出来た。
これから、1年と少しの間、水泳というスポーツと心から向き合う事のできる大変、幸せで充実した、リズミカルな時を過ごすことになる。私達の呼吸法 気功で快適な身体という言葉がある。呼吸法 気功で言う快適な身体とは、身体が呼吸法 気功の稽古によって緩んでエネルギー循環が良くなった身体は身体が細胞レベルから活性化して快適さを感じるが、水泳でも今までの陸上での動きと比べると水泳は内臓の動きが大きい為、呼吸法 気功の程ではないが、身体が少し緩んだ感触になる。これも大きな水泳をする動機となった。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 社会人時代

何故 心理学?しっかり泳げて、給料の良い会社に
応募したら・・・。 偶然の必然の巻。

偶然、入った会社がマネジメント教育・訓練をする会社。クライアントは日本の1部、2部上場会社と韓国の大企業。私の居た会社は、当時100万人居た ATT社の社員の教育・訓練をするためのブレーン会社DDI社と提携した、極東における、同社のプログラムの普及会社。世界的な心理学者と交流があり、この、DDI社のプログラムは最先端心理学プログラム「行動科学。」大いに刺激を受ける。(内観法・外観法、共)
人は何故、思い、悩み、苦しみ、喜び、楽しみ、怒るのか? 何故、成長し、成長 しないのか?当時のテーマでした。

しかし、この頃の心理学の世界は、人間の外から、つまり、心と言われるメンタルな現象を身体の外から、眺めながら、論を展開するにとどまっており、「心と体は連動する。」と言う言葉が新鮮な時代でした。今日、心は大脳辺縁系の心と腸管内臓系の心と二つの心に由来すると研究対象がしぼりやすく、なりましたが、当時は、ややもするとピントが外れたままの、なんだか眠たい世界という印象が私にはあります。人間の心を対象にした心の学は生きた人間の身体と連動した科学として、一つ一つのテーマを周辺諸科学と連携しながらの展開を望みます。                         又、ここで出会った、世界的な心理学者達の講演時の質疑で、知っていることは「知っている。」知らないことは「知らない」という、一つ一つを曖昧にしない、歯切れの良さは、その後の私に大きな影響を与えた。
心とつく本をラック何杯分か読みあさったのも、この頃のことでした。

私は心理学の実践プログラムを水泳のコーチングに生かせる様にしっかり、学ぶことが、この会社での一番の目的でした。しかし、この時、ここで、心理学を学びたいと考える様になるのは、この、会社に入ってからでした。ここでのプログラムは非常に実践的で効果も高い方法論だった。当時、日本社会の大手企業はまだ、内観法の心理学を採用し、管理者研修などで「頑張れ!」と脳に働きかけ、心身のバランスの崩れている管理者に時々自殺者を出すこともあった。脳が疲れて、体が錆び、動きが悪くなるプログラムだった。私の出会ったDDIのプログラムは「歩いている体を、そっと後押しする様なプログラムであった為、」大変、好感を持たれ、効果も上がった。「心を変えて行動を変える時代から、行動を真似て行動を変える」時代への転換点となる時代最先端のプログラムを日本に居ながら、学ぶ事が出来たのも、ラッキーだった。情報や理論も大事だったが、管理者教育の現場での観察が何よりも、この、プログラムでの人間理解を促進してくれた。そして、人間のフィジカル「身体的」とメンタル「精神的」は呼吸法 気功の世界に入ってからも大切な概念、この時代にメンタルの糸口に正面から出会えたのもラッキーだった。

(写真は都内の社会人、地域水泳クラブのメンバーと 遠泳の側泳として 千葉県君津の浜にて)

MSC時代を中心に毎日マスターズ(当時、国内、社会人ナンバーワン競泳チーム)にて競泳を楽しむ。チームメイトが一人一人、素晴らしかったので、そして、コーチの故、岡田社長が素晴らしかったので、この頃は周囲にしっかり、目標となる素晴らしい先輩達に囲まれ、仕事に、競泳に、本当に1日1日が充実して、ピカピカ輝いていました。競泳という種目を心ゆくまで、楽しむことが出来たのもこの時代でした。故、岡田コーチ、「大事なことには、妥協する事なく、立ち向かえと、若き日の私に教え、示していただいたのは、貴方でしたね。」本当にありがとうございました。   合掌。

この、最強チームを支えたプレイングマネージャーと、チームメート、思いっきり、仕事と競泳に体当たり出来たのも、必然。そして、メンタルの大事なファクター、心理学に実践的に向かえたのも、これらを通過して迎えている現在から見ると、やはり、単なる偶然ではなく、「必要で必然」としっかり、感じる。私達の呼吸法 気功のテーマである、フィジカル(身体)とメンタル(精神)特になかなか、理屈だけではなかなか、身に付きにくいメンタルを沢山の現場での実践に振れながら学べたのも、呼吸法 気功のテーマに迫る上でも、財産となったと呼吸法 気功教室を運営しつつ感じる。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 名古屋城加藤清正像前で

名古屋城 加藤清正像前で
この頃、心理学プログラムの現場での驚き。
コンサルT氏 人間の感性ってスゴイ!

たまたま、入った会社が産業教育訓練を商品とする会社、産業心理学のプログラッムの実践の場でもありました。プログラムは最先端心理学が基調となっている世界だったので、当時の心理学の世界を、垣間見る気持ちで、たくさんの興味ある、出来事に遭遇していた。

当時の日本の産協界は団塊の世代が管理職に就く時代で、この同じ世代の誰を管理職に就けるかは、大手の企業の大きな大きな問題でもあった。多くの企業では、選抜試験を実施していた。このときのキーワードは[本人の納得]だった。この、納得を示すツールとして、ヒュ-マンアセスメントプログラムという、管理者のマネジメント能力を診るプログラムが管理者選抜の方法として、多くの企業で採用された。

方法は管理者の対集団場面でのイニシアチブ、職場内での案件処理能力、対個人場面でのリーダーシップが解りやすくシミュレートされている演習課題を、行うことにより評価するというもの。そして、参加者はどうすれば良かったのかを座学で学ぶ。
評価はレポートとなって会社へ。しかし、このとき、なぜ、この人がこの、ポストに最適か?を更に求められる場合があった。このとき、登場するのが、当時のTというコンサルタントだった。案件処理以外の、対集団、対個人のリーダーシップを診る演習課題はVTRで撮られ、必要なら、演習課題の展開に、コメントを付けたりして、トツプや上司に報告する場面も時々あった。

この場面での、コンサルタントT氏の展開は当時の私」にとってカリスマ的ですらあった。
「この管理職候補A氏はおばあちゃん子で、大変、優しい、正義感の強い人で、部下からも人望が厚い、しかし、このおばあちゃんは、このA氏に対して、我慢することを教えていなかったので、A氏は順風には強いが、逆風には大変弱い。」と演習課題のVTRを診ながら説明を加えた。

え?何故おばあちゃん子!?このVTRを何回見ても、何処を見ても、おばあちゃんのおの字も出てこない!何故だ?・・・。当時の私はこの、演習課題のVTRを何度も見直したが解らなかった。初期の頃、Tというコンサルタントの言うことが本当か?どうか?人事を通じて調べた企業もあったが、やはり、コンサルタントT氏の言うことは正しかったと言う。答えのある学問しか、経験していない私にとって、???の連続の楽しい毎日だった。言葉を超えて現実の中で展開するサムシングこれを読み取り、自己を運ぶことは、生きた現実を生きる上で大切なこと。それをするのは頭脳ではなく、身体だ、優れた身体からは、優れた直感が生み出されるのだ。「直感(身体)は誤らない。誤るのは判断(頭脳)だ。」後に呼吸法の世界で、我が師、西野皓三先生から学んだ言葉だった。呼吸法 気功の世界を今、私自身が経験し、北海道や沖縄を初め海外でのクライアントへの施術で身体が何千Km離れていても意識が通じれば相手の方の具体的な身体の不調な臓器や部位その、不調を起こしているストレスの身体内の所在、そして、その、ストレスの箇所に生命エネルギーを送り込みストレスを小さくするなど、今は可能でも、呼吸法 気功で培った気 生命エネルギーのなせる技だが、当時の私には、コンサルタントT氏のこの事、以上に信じられなかったことだろう。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 大学時代

居た、居たやっといた!
生きた現実の中で完全燃焼している大人達が!
やっぱりカッコイイ!!

高校の陸上部のOB達や同じ教室のチームメイトが卒業と同時に既成の社会に、あっという間に同化してしまう姿を見て、大きな違和感を感じた。いままで、身体で競い合う、自然の火花を散らし、カッコイイ、ハーモニーを奏でていた人達が・・・。と残念でならなかった。しかし、自分は?と言うと、これも残念ながら、しっかりした居場所のないことにも気づいた。この頃の自分の居場所とは、言葉にすると、自然とリンクしたすがすがしい、価値を生み出しながら生きるそんな場だった。そして、自分にとって、人間にとって本当の価値とは、いったい何か?明確な答えがほしかった。

大学へ進学したのも、そんな自分の居場所を求めてだった。しかし、残念ながら、「知識人」といわれる人達には出会っていたが、そのような生きた、光沢のある生き方には出会えなかった。
せめてもの出会いと言えば、住んで居た文京区に温水プールで自分の足で立ちながら、水泳を楽しんでいた、チームの一員に成れたことだった。しかし、完全燃焼している。と言う感触はなかった。

しかし、ここ、毎日マスターズの選手達は輝いていた。水泳選手出身者も少なくはなかったが、成人してから始めた水泳が、すでに全国レベル。これだけでも、当時の私は、感動ものだった。しかし、それぞれの先輩選手達の、仕事を見てみると、時間に余裕のある人なんて、居ない、しっかり、自分の時間をコントロールして、競泳を楽しんでいる。そして、自己記録を競泳でも、仕事でも、更新しながら、生きている。
「ああ、やっと見つけた。ここにだったら、居ても良い。」日本一の社会人競泳チームの人達は輝いていた。

このチームの当時の50歳代メドレーリレーの個性的なメンバーを紹介してみよう。このチームの練習は月、水、金のpm7〜8:45で多いときは6.000m近く泳ぎ込む事もあった。この他にシーズンによっては土曜の夜、日曜の午前、が加わる。忙しい人達、なのに練習はほとんどメンバーが揃う。頑張るではなく、「楽しむ!」という雰囲気だった。

第一泳者。背泳 IさんNHK放送部国際部長。いつも、大きな肩から下げる携帯電話を持ち歩いている。NHKの国際ニュースの第一報はこのIさんの携帯電話に入る。どう扱うかはIさんが決める。練習のわずか2時間弱の時間にも、この電話は3回に1回くらいは鳴っていた。ビッグニュースの時、月に一度か二度は、職場に戻って指示を出していた。細切れの時間を大切にしている姿が、気の毒でもあった。しかし、練習は日本に居るときは、ほとんど休まなかった。

第二泳者 平泳ぎ 岡田コーチ 毎日マスターズ社長。自分がチームで泳いで選手のラップを決めたり、選手を励ましたり、叱ったりと心を砕いてメンバーを育てていた。私はコーチから、ヒロ、ヒロと呼ばれ、可愛がってもらった。たまに、仕事で寝不足の時など、ラップを守らず、泳いでいると、隣のコースで泳いでいるはずの、岡田コーチが私のいるコースにいて、「どうした?」と叱咤されることもあった。30人近い競泳チーム一人、一人そんな経験をしているに違いない。

第三泳者 バタフライ M氏  零細アパレルメーカー社長。優先順位1はマスターズで泳ぐこと。紀尾井町にある毎日マスターズは朝10時〜夜6:30まで1コースをスクール以外のメンバーに開放していたので、夜の練習に参加出来ないとき、もっと練習をしたいとき、このコースでの練習が出来た。M氏はほとんど、毎日、自分の練習のため、このプールで泳いで居た様だ。私が夜の練習の出来ない日に、M氏にこの、コースでの練習で良く会った。企業経営だけでも、忙しかっただろうに、いつも遊びながら仕事をしているような不思議な雰囲気がただよっていた。

第四泳者 自由形 A氏 中小エンジニアリング会社社長。いつも少し遅れて練習に、東京に居るときは練習を休まない。と言うのが口癖。愛車のカマロで都内を移動しているのを時々見かけた。静かな物腰と優しさの中から、しっかりした安定感を感じた。立派な方。よく、チームで遊びに行くと解散後、カマロで近県の美味しい、レストランや料理屋さんに連れて行ってくれた。

もう一人の第四泳者、i氏 新日鐵課長、45歳から、泳ぎを初心者から習う。競泳は当時4年目、50歳代なのに、インターハイ決勝のタイム1,5秒落ちで泳いだ、立派な日本を代表する、おじさんスイマー。

こんな人達と、競泳を通じて生活を共に出来たのが、この時の大きな財産だった。月に一度か二度、近くの居酒屋でミーティングと称しての飲み会は大変楽しかった。同一目線で20〜50歳のメンバーが語り会えるのが何より魅力的だった。ドイツではこんなことが流行ってる。とか、アメリカのどこどこでは・・・。となかなか現地でないと解らない新しい事が聞けたり、会社経営の大変さをたまにはこぼしたり、自分の弱さを自然に口に出来る屈託のない強さが、若い20代の私には、何とも言えない魅力に感じた。又、毒舌だったけど、岡田コーチの楽しいトークもメンバーが輝きを失わない為に必要だった。また、シーズンオフにはA氏の会社の管理する川口湖の別荘へも原価で宿泊出来るテニスも土日によく参加した。楽しいひとときであった。とにかく出力全開!の日々でした。
このチームのエネルギーが岡田コーチを通じて一つになっていたのも、言葉を超えて感じたことだった。

「今、そして、ここに生きる身体をつくること。」これは呼吸法 気功のテーマの一つだ。この、毎日マスターズの先輩達全てがそんな身体をしていたわけでは無いと思う。しかし、この、毎日マスターズという場がチームという「場」が、様々な個人の弱さ個人レベルの弱さを克服し、本来の強さを引き出す作用をしていた様に感じる。「完全燃焼しているカッコいい大人達。」そんな人達に出会えて、「やっと居た!}と出会いたいチームと出会いたい人達にやっと出会えて胸をなで下ろしたひとときでした。
「今とここ」で、悔いなく生きること。それを、自己に向かいながら、実現してゆくメソッド、それが私達の呼吸法 気功だ。そんな意味でも私達の呼吸法 気功の目指す身体の意味は大きい。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 八ヶ岳にて

八ヶ岳にて

気持ちが 「今、そして ここ」 にあると力が
出るようだ。の巻

水泳に出会って3年目に日本水泳連盟、第二種水泳指導員の資格を取り、文京区のプールを中心に水泳の指導もするようになって以来、「混まないプール」で水泳教室の練習が出来たら、どんなにいいだろう。」と思う様になっていた。約、10年弱の日々が水泳と出会ってから、過ぎ様としていた。混まない自前のプールでの水泳教室が実現しようとしていた。

待ち望んでいた、自分が指導するプールが石川県の能登半島で初めてのスイミングスクールという形の水泳教室が、今、まさに出来ようとしていた。
スイミングスクールは私の居た会社では、新規オープンの場合、そのスクールのへツドコーチが建物の設計から、水泳教室のカリキュラムの実施までを、行うことになっていた。そんな意味でも、スクールの出来上がるのが、待ち遠しかった。そして、スクールがオープンして、自前のプールで水泳教室が、稼動を始めたのは、何よりもうれしかった。

スクールのオープンに伴い水泳教室での指導中心の日々が、始まる。この、10年間、水泳と人生を重ねたかった。水泳というスポーツ種目の特性を生かした運動プログラムにも、水泳自体でも様々なやってみたい事が教室ではあった。一日の時間は、アットいう間に過ぎ去って行った。
こんな、曇りのない気持ちで、日々を過ごすことが出来ると、仕事の結果も大きくなるものだ。

ジュニア選手ばかりの水泳チームをほとんどのスイミングスクールは持っているが、私の指導するビツグななおの競泳チームは私が指導していた。
新しいシーズンがスタートする時、年間の大会スケジュールと目標とする大会の、練習メニュー、目標タイムを決めるミーティングをおこなって、チームのテンションアツプを促進していた。

この、目標とする大会の、目標とするタイムが、よく当たったのだ。それも、百分の一秒単位で、約80パーセントのの目標タイムが百分の一秒ズレずに当たる。これは選手たちにとって、大変なインパクトだった。タイムがズレる選手も居たが、目標タイムを下廻るのではなく、大幅に更新することによってであった。この事によって、絶対に近い信頼が私と選手の間に出来た。これは、何よりも、チームの結束を強固なものにした。
当時、私はこんなことが例年できることって、何故か考えたことがあったが、わからなかった。ただ、MSC時代にカリスマ的なセンスを持つ、コンサルタントT氏を見ていたので、そんなものか!と感じていた。

呼吸法 気功の師匠西野皓三先生の言葉に「今、ここで生きる」という言葉があるが、多くの人は、残念ながら、「今、ここで生きていない」正確には、「今、ここに居るが、気持ちは定まらず、あっちに行ったり、こっちに行ったりして生きている。」様だ、私は「今、ここに」気持ちがあった。というだけのことだった様だ。そうすると本来に直感が冴えてくる。
残念ながら、私も少しずつ「今、そして、ここ。」に生きるパワーが現実の利害関係やマネイジメントが絡んでパワーダウンして、気持ちが「今とここにない。」その様な流れに入って行く事になる。

しかし、約、三年の間、私の気持ちのセンターに水泳が座ることになる。利害関係を含めた人間的現実はもう、しばらくの時間が必要だった。
とにかく、約、三年の間、能登の自然の中で、18人のジュニア水泳選手たちと、四つに組んだ日々が始まる。そして、三年が経った頃、この、18人の選手達は、北陸を代表する選手に成長する。一日一日が楽しい日々だった。呼吸法 気功で言う「今、そして、ここに生きる。」ことは、迷いのない幸せな時間が過ぎ去って行く。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。

これって成功!それとも失敗? よく解らないから、
駆け出しプロ水泳コーチ 苦労してしまいました。
ザ・ビッグ・スポーツ社内競泳大会優勝の巻

こんなことが ありました。プロの水泳ヘッドコーチとして、水泳教室の仕事を始めた約、一年後のことです。私の所属する、ザ・ビッグ・スポーツ社内の役員周辺で、どのコーチが競泳選手の育成能力があるのか?と社長であるH氏が問うたことが、キッカケになり、社内でスクール 教室対抗の競泳大会をすることになった。

当時のビッグスポーツは、まだ、20校あるかないかの規模の会社だった。第一回目は残念ながら、私のスイミングはオープンの準備で参加できなかった。そして、次の大会から、スクール 教室オープン10ヶ月目に私の選手達がこの大会に参加する事になる。

前評判はこうであった。すでに、教室オープン5年目の指導部長のK氏の指導する静岡県内のHスクールが、最有力とされた。理由は指導部長のK氏は●●女子校を率いて、インターハイで全国制覇を何度か成し遂げている強者、今現在もジュニア・オリンピックレベルの選手を何人も育てている。他にも県レベルではファイナリストばかりのレベルの教室、スクールは何校もあった。指導者自体、インターハイ、国体のファイナリストは当たり前、オリンピック経験者、世界選手権経験者もいた。

はっきりした、私のチームについての前評判はこうだった。「廣川のビッグななお は勝負の土俵には乗れない。まだ、オープンしたばかりだし、指導者の廣川自体が、まだ、水泳は素人だ。」前評判については、「結構、言ってくれるな!ここのところは我慢のしどころ!」と「そのうち見てろ!」と受け止めていた。競泳は順位、タイムがハッキリ出る。待ったなしの世界だ。

そして、大会当日、能登の田舎の教室の選手達、金沢での大会では、初めてのこの、夏の大会は田舎の水泳教室の選手だけあって、ギコチなかったが、大阪、名古屋の選手達は、同じグループでの教室大会は、名古屋や大阪で経験しており、さらに、教室のある地域の大会や、合宿では、お互いの手の内を知り、また、指導者同士、情報交換や合同練習をしており、選手としたら、自分の力を出しやすい、普段着で頑張れる大会の様だった。そんな、雰囲気の中に入って行くのだから、私の18人の選手達は大部、緊張気味だった。

そして、レースは始まった。私の18人の選手達は予想通りのタイムで泳いでいる。そして、ほとんどの子供達は決勝に進んだ。「ベスト3に入ればいいや!」これが、私の今回の目標だった。
ところが、教室父兄のMさんから、「コーチ、あと、三人優勝すると、この大会は優勝出来ますよ!」選手はまだ、8人残っている。 「残りのレースの他の選手の予選タイムを調べてください。」解りました。「5人は勝てます。二人は良い勝負です。」教室父兄のM氏、T氏、「手、足がガタガタ震えています。」私は「解りました。勝ちましょう!」「コーチどうしたらいいですか?」「プールサイドのビッグ七尾の教室応援席に居る教室父兄、バスに居るおじいちゃん、御婆ちゃんもみんな集めてください。そして、そこで、どうするか私が話します。そして、教室応援席に全員が揃った報告を受けて。

二台のバスから60人近い、応援団が急遽、結成された。
そして、「皆さんのお子さん、お孫さんが今、すごい事を成し遂げようとしています。たった、十ヶ月の日々の練習でしたが、一日、一日、大変、密度の濃い日々でした。10月オープンでしたから、一ヶ月少々で、秋のあられや雹の季節、そして、12月からは雪、と氷の季節、バリバリに凍った雪道を町中から、自転車で朝6時前に天神山のスクールに着き、プールにかかっている。マットを外し、練習。そして、学校に行く。そして、5時30分からは練習8時45分まで、日曜日は朝練、午後は一時から練習、朝練が終わると、朝ご飯の弁当、そして、ギャラリーの部屋で勉強。大きい子は小さい子の解らないところの面倒を見る。そして、昼の練習。一日、一日、火の出るような情熱の日々でした。私は二ヶ月前にこの、大会の参加選手のタイムチェックをした時、今回は少し、届かないと思いました。しかし、あれから、他の教室、スクールの子達の伸びがゆっくりなので、勝つ可能性がでてきた。そして、今、やれば、勝てるところにいます。選手も全身全霊で泳ぎますので、全身全霊で応援してあげてください。そうすれば、この、ビッグななおの教室の選手達は勝てるでしょう。」

そして、炎のような応援が始まった。目の前にいる我が子、我が孫が、今、まさに大阪、名古屋、の子供達と互角以上の闘いを繰り広げている。ビッグななおは、なかなかやる!会場の雰囲気はその様になった。
そして、レースは6人が優勝し、リレーも2種目優勝した。総合優勝は私の教室のチーム、ビッグななおだった。私もこれは実力だ。と思い、少し、有頂天になった。これが、問題だった。

そして、翌年の全国大会も2位にかなりの差をつけて優勝した。オープン二年に満たないスクールが二年連続、ダントツ、トップで2回目の優勝をしてしまった。二回目の大会前、何人かのヘッドコーチが「今度は負けないと私に言ったが・・・。」そして、H女子校で全国制覇を何度かした、K事業部長は社内の会議では、私と目を合わさない様、逃げ腰になって、しまっていた。

ここまでは、あまり問題は無かった様だが、これからが、問題大有りだった。社内で圧倒的に勝ったことで、「今までとは、少し、自分の様子が変わってしまった。」当時、本当の目標は、水泳の基本技術については、初心者、中級者の技術の展開は完成していた。競泳の全日本レベルの中、高校生をつくること。これがテーマだった。「このことは、難しくない。という感触と、ともに、いままで、一歩、一歩の歩みもしっかり意識した。ひたむきさを自分でも感じていたが、それが、感じられなくなっていた。」変なプライドとものぐさの誕生である。社内での自分の年齢20歳代なのに、もうしあがってしまっている、50代の一流と言われている、教室のコーチ達にはっきり勝っている社内での評価、ポジションにイヤに気がさす。そんな、行き詰まりともいえる自分が頭をもたげてきたことに気がつき始めた。

呼吸法 気功の世界、特に私の師、西野皓三師は私達の感情について、喜、怒、哀、楽というが、「楽」以外の喜、怒、哀、はストレスとなると、おっしゃったことがある。私もこの社内だの優勝は少し、有頂天になりすぎた様だ。「喜」喜びも度が過ぎると、ストレスとなる事をこの後、実感する時が来る。呼吸法 気功で言う「楽」を楽しみながら、味わう境地には、まだまだ、距離が大部あった。そんな、自己を培う、呼吸法 気功の世界と出会うには、もうしばらくの時間も、学習も必要だった。

今まで無心にやっていた事が、何だか、バランスが悪くなってしまった。全社の教室(スクール)の大会で勝ったとは思っていた以上に周囲にも、「歓び」という影響や実利の影響が出ていた。これが、次第にストレスになってしまった様だ。こうなるとタチが悪い。人間がものぐさになる。「俺ってスゴイ!が自分の真ん中であぐらをかいている。」変なプライドが姿を現し始めた。

こんな、社内の小さな出来事が私たちにとって「事件」であった。これは、私たちがアマチュアではなく、プロの教室(スクール)代表のコーチの集団だったからだ。そして、寝食を忘れる位、一生懸命だった。さらに、先輩のコーチ達は、自費で海外の有名ナショナルコーチのところへ留学してきた者、会社から、派遣された者。水泳選手として、国際レベルだった者、等々、それぞれのプライドと生活がかかっていた。この真剣さと、一人一人のプロの水泳教室(スクール)を代表するコーチ達のプライドの重さが私には、当時、理解出来て居なかった。

当時は私自身の事など考えては居なかったが、この教室(スクール)の全国大会、二連覇の結果は偶然ではなく、必然だった。これは、水泳出身者の他の教室(スクール)のコーチ達にとってショキングであっただけで、陸上競技出身の私から見たら、当時の水泳界のトレーニングメソッドはまだ、発展途上の、未成熟なのんびりしたものに映っていた。練習は、ストロークやキックのフォームのチェックや、基本メニューの反復がほとんどだった。身体の使い方でも、陸上競技では、走り幅跳びや、ハイジャンプの様に超スプリントの世界から、マラソンの様な超ロングの世界までの身体のダイナミックな動きのトレーニングメソツドが、はぼ、出来上がっていたし、私はそれらをほぼ、捉えていた。

陸上では短距離の練習にフォームチェック、中間走、スタートダツシュの練習をほとんど、毎日の行い、練習のかなりのボリュームをさいていたが、水泳ではそのようなチームは稀で、スイム(陸上でいう中間走)の練習がほとんどの中心メニューだった。そんな「未熟で幼稚な世界で勝てて当たり前。」と澄んだ目で、この「事件」を見られなかった自分が、自分の動きを悪くしてしまった。大きな反省点だ。

何処、何処で何位なんて、姿、形にこだわるより、「世界でほとんど通用しない、日本水泳の競技レベルの低さの原因は何処にあるのだろう?」これが、当時の「私にとって、大事なこと」であった。「大事なことは、姿、形を現さない。」このことに気づくのにこのあと、10年以上の歳月を必要としてしまった。今、思うとこの、ロスは大変、勿体なく感じる。

呼吸法 気功の我が師西野浩三先生は楽しく生きる様にと説く。楽しいとは身体に生命エネルギーが循環している時の様子だ。この生き方にしばらく、の間逆行する事になる。頭(頭脳)が先行した、シンドクいきる生き方の始まりだ。

この頃、周囲には北陸の強化コーチ、富山のH氏、S氏、石川県の国体強化コーチ内にもM氏、など、素晴らしい人達が沢山いた。合宿などで、心洗われる場面、沢山の学びの場面を見せつけてくれた人達、自分が何かに縛られ、「ものぐさと慢心の上にあぐらをかいてしまっているため、素晴らしさが自分の中に入って来ない。」こんな、姿、形のあるものばかりを追いかけ、肝心な大事な事が見えなく成って来た。時間の無駄遣いの始まり・・・。
この、壁を乗り越えるために、約、15年近い時間を必要とした。そして、自分の目標は残念ながら、実現出来ないまま、次のステージに気持ちは、移動して行くことになる。次のステージとは、ここ水泳教室のコーチをする事で見極められなかった(somethinng)サムシングを見つけ、気付く事だ。この、サムシングとは、呼吸法 気功でいう自己の殻だ。私達の呼吸法 気功では自己の殻に閉じこもる事を身体を閉じるという、そんな自己満足の世界は、寂しく、つまらないし、苦しい。

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来る日も来る日も水泳。
続けるのもエネルギーが必要。の巻

社内の教室(スクール)対抗の大会での二度の優勝、北陸地方でのSC協主催大会での活躍、私の18人の選手達は北陸の大会では必ず自分の種目で3位以内に入り、表彰台にあがる様になった。何人かの選手達は、全国大会での決勝に上る力もついて来た。水泳教室(スクール)の地域での影響力も強くなっていった。

こういう時は、危ない、順風は有り難いが、人間がものぐさになる。この頃の私自身のキーワード。ビッグで1位。北陸で1位。は、ほぼ実現していた。しかし、なぜか全日本のナショナルコーチになることには、まだ、ギャップを感じていた。

こんな志だから、一生懸命はやっていたけれど、住む世界が、現実の柵(しがらみ)の世界にしっかり、組み込まれてしまっていた。思考エリアは北陸モードだった。身体に余裕がなくて、夢を描くパワーに欠けてしまっていたようだ。私にとって苦しい現実モードの日々だった。

水泳教室(スイミング)での仕事は、朝5:45に教室(スイミング)到着、7:00まで朝練。それからペーパーワーク。そして10:00少し前頃、から教室職員が出社してくる。一日のお互いの歯車を合わせて、業務開始。夕方6:30教室(スイミング)の授業終了。5:00〜陸トレ開始。5:30〜6:00に水中トレーニング開始。夜8:45頃、練習終了。その後、教室職員の居ないコーチ室でペーパーワーク。6月末〜9月末まで、は週末の金、土、日。が遠征になるため、このペパーワークが午前一時、二時になってしまう。この他の石川県の水泳連盟、スイミング協議会、北陸の強化委員会の会議。そして、会社のヘッドコーチの会議・・・。遠征以外にも、教室のある能登の七尾に居られる日は週に2〜3日程度。いくら若くても疲れる。呼吸法 気功の世界で緩めるという意識上の概念がある。緩めるとは生命エネルギーが循環する緊張の逆の様子だ。この頃の私は緩めることに無知な生活を送っていた。残念ながら、呼吸法 気功の基本概念にはまだ、理解が及ばなかった。

こんな私を案じてか、教室(スイミング)のN事務長(年齢は私より5歳上)私が釣りが趣味なのを知って、「能登では黒鯛が、釣れるから行こう!」と声をかけてくれた。そして、教室の選手のメニューが早く終わる日に能登島のポイントヘ釣れて行ってくれた。初めての夜釣りだった。これが何とも楽しく、痛快だった。これを機に黒鯛釣りにはまってしまうことになるとは、思ってもみなかった。

初めての夜の黒鯛釣り、磯か、潮通しのいい、堤防にでも行くのかな?と思っていたら、能登島のテトラポッドのある小さな湾だった。湾に到着して、仕掛けを懐中電灯で照らして、作っていたら、蛍が何回か飛んで来た。少し曇り加減で、闇夜だったが、湾の沖ではボラが跳ねていた。群馬の陸育ちの私には、経験したことのない、浮き世離れした、幻想的な景色だった。特に仕掛けの先についた化学薬品で光を発する目印が、魚の当たりに反応して動く様と、それに連動してゴツゴツと手に伝わって来る黒鯛が餌をつっついている感触は何ともいえなかった。教室での朝から夜中までの仕事の現場に居る自分が身体を開き、久々、生き生きした大切なものと、自己が対面した手応えがあった。始めて釣った黒鯛の懐中電灯に照らされた姿は今でもしっかり覚えている。そして、この、一週間後、一人でこの、能登島のポイントに出かけていた。

生まれて初めて、仕事で疲れる事を知った時期でもあった。能登にはボラ待ち櫓(やぐら)というのがある。ボラが泳いでくる魚道に網を張り、それを櫓(やぐら)の上から見て、ボラの群れが入ったら一網打尽に引き上げる、伝統漁法だ。当時の私は、この櫓(やぐら)上で、来る日も、来る日も、回遊して来るボラを待ち、日々を過ごしたい。と本気で考えていた。苦笑!!
こんなに疲れてたら、目標を下げずに、作業を整理し、仕事を見直し、もっと伸び伸び出来る環境づくりを先ず実現して、その環境のなかで、良い仕事をしたら、きっとスタッフももっと楽しく仕事が出来ただろう。

呼吸法 気功の我が師、西野皓三先生の言葉の中に「快適な身体から意欲は生まれる。」という言葉がある。さらに私は呼吸法 気功の稽古を通じて、高齢になっても夢を持ち夢にアプローチしている人達を何人も見てきた。彼らは、呼吸法 気功を通じて先ず、「快適な身体」をつくっている。その快適な身体から、夢は生まれるのだ。元気な子供たちは快適な身体を持っている。快適な身体からは当然の様に夢が生まれる。

この時の私の身体はストレスの蓄積した「快適でない」身体だったので、計画はあったが夢はかすんでしまっていた様だ。私のキーワードはエネルギーの少ない人、疲れた人独特の「頑張れ!」だった。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 精神力でもなく、筋力でも持久力でもない、何かとは?

精神力でもなく、筋力でも持久力でもない、
何かとは?

私達の生きた現実のなかで、経験を重ね、時間を重ね、様々な澄んだ目で活動をしていると、常識と言われるエリアの周辺に様々な常識を越える事実が現れて来ることを経験する。勿論、常識といわれる、現実の中に埋没してしまった生き方の中からは、その様な事は経験し得ないだろう。

私がこの水泳教室のコーチ時代に経験していた、私達の行動を支えるサムシングを一つご紹介しよう。

当時、私は人間の「能力」に着眼していた。私と教室で競泳を共有していた、教室のジュニア選手達の能力も当然、私の大きな関心事だった。
当時、競泳のトレーニングメニューの流れの中に「量、質ハード期」というのがある。この時期の仕上げの練習は、なかなか、指導者としても微妙な判断を要する練習メニューの時期で、競泳の練習も、ミドルパワー(中距離的なメニュー)を中心に徹底的に身体を追い込む時期だ。乳酸が体内に充満して、苦痛も大きい。選手達もこの時期は、シーズン始めに直結するので、良い通過をする事に全力を傾ける。この時期の一日、一日が恐いとも選手達は言う。「強さばかりでなく、弱さもはっきり出るからだ。」

この時期は教室の選手達にとって「メタクソ疲れて、指示されたメニューを全てこなせる、保証のない時期」ということだ。上手く通過出来れば、大きな自信につながるし、こけると、いじけた気持ちで、シーズンをスタートすることにもなる。だから、コーチである私も真剣だ。一種の「行」に通じる、厳しさを通過して、自己の存在感を明確にすることが、この時期の目的だ。

この時期には、あえて、この時期のピークに「出来そうで、何かプラスアルファーがないと通過出来ない、意地悪なメニューを選手一人一人に与える。」達成出来ないかもしれないメニューが教室の選手一人、一人、を待っている。

選手は私から、メニューを聞いて様々な思いを巡らす。「こんなこと、出来るか!」、「どうしたら、出来るだろうか?}、「考えても、解らないから、とにかく、一本、一本、片づけて行く」、「出来なく、なったらその時考えればいいや!」・・・・。

メニューが与えられた時から、選手はメニューを自分なりに解決する世界に入って行く。そして、誰にとっても辛い練習が始まる。

私は、選手一人、一人の能力を知っているから、選手が自分のキャパシティ一杯だと思っている内容の5パーセント前後上乗せしたメニューを準備する。

私の教室の選手達はジュニア選手と言っても、自己の100パーセントに近い能力はいつででも、特別な調整なしに出せる選手達だ。教室の選手のほとんどが、自分の種目では石川県チャンピオンだし、北陸三県のチャンピオンもメンバーの半分近い。セットメニューでそれを、上回る、負荷を経験するのだ。

全く、出来ない事ならば、簡単にあきらめがつく。しかし、「もしかしたら、出来るかも知れない。」可能性のある事なら、彼らは自己の尊厳をかけて、挑む。」

そして、その時が来た。プールサイドの景色は、いつも通り、しかし、スゴイ、サムシングが実際は交錯して、教室の選手達を覆っている。

100mx10 2分10秒サークル 4セット セット間インターバル3分                      制限タイム
1分 7秒
1分 9秒
1分11秒 の3グループ。 セットごとにプラス1秒
言葉にするとこんなものだ。

1セット目、終了。そんなに大きく100パーセントを上回っていない。何となく教室の選手達に安堵の雰囲気がただよう。と共に激しい呼吸音。しかし、だれも、自己をしっかりリードしている。

そして、2セット目が終わる。いつもより、きつい練習だから、インターバル(練習のセットとセットの間の時間)少し多めにとる。プールサイドは、泳いだ後の教室の選手達の呼吸困難の音が響く。そして、2セット目になると、ただ苦しさとの闘いだけでなく、様々な思いが、頭を持ち上げてくる。選手達の表情もまちまちだ。そして、3セット目のスタート時間が迫って来る。まだ、理性でのコントロールが可能な様だ。

そして、3セット目の練習に入る。4〜5本目になると、正しいラップがきざめなくなってくる選手が出始める。
3セットが終わるセット間の三分のインターバルがはじまる。いつも、ここで、我慢の限界を迎える選手がでる。いつも高校生、中学3年生だった。

「もう行けない!」「大声で泣き出す。」「コーチどんなに苦しいか解るか!」「次のセットやるけど駄目だったら・・・。」「くやしい!と下を向いて、呼吸困難。」
かなりの選手が自信を失って、苦痛に耐えている。そして、私はただ、それを見つめている。

しかし、こんな場面でいつもチームを行くべき方向に励まし、そして、導く小さなヒーローがいる。小学生のTだ。
「あと、1セットやろ!終わったら休めるんや!」この教室の小さなヒーローの一声でチームの葛藤が消えて、昇華した澄んだやる気が再びチームを覆い、新しいゾーンに気持ちが移動して行く。

残念ながら、いつも小さな、小学生のT、彼が壁を打ち破る。高校生達から見たら、身体の大きさは半分くらいしかない。小学生のTがいつも、チームの雰囲気を察知して、流れを変える。この、Tの持つリーダーシップにいつも感心していた。と同時に、本当の極限状態でのリーダーシップとは、必ずしも年齢や知識とは関係ない事を見せつけられた。この、ひょうひょうとした、自然体の強さはなんだろう?
筋力xスピード=パワー という常識の物差しとは別の大きな私達を生かす源泉のパワーと言うべき何かを私は直感していた。
十数年後に、呼吸法 気功を学び、気 生命エネルギーの循環が呼吸法 気功によって大きくなると、今まで困難だった事を困難と感じなくなることを私自身、経験し、生命エネルギーの循環、「生きる力、生命力」の違いであったことを理解したが、呼吸法 気功でこの様な経験をしていない当時は、不思議な現象として、捉えていた。

小学生のTは当時、ジュニアオリンピックの50m、100mの自由形の決勝に残る事を目標にしていた。そして、この、練習の約、一ヶ月後、決勝に残った。そして、夏のジュニアオリンピックでは、50m、100m自由形のファイナリストとしての活躍をした。そして、次の、春のジュニアオリンピックでは、競泳を始めて4年で全国ベスト3を目指せるレベルまで成長した。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。

真中央が前畑頑張れ!の故兵藤(旧姓前畑)氏  廣川は左奥

写真中央が前畑頑張れ!の故兵藤(旧姓前畑)氏  廣川は左奥

捕まえたい何かが見え隠れしたら、 水泳が霞んでしまった。
いよいよワンダーでミラクルなゾーンに出発だ!?

わずか、数年だったが一生懸命、常識にとらわれずレベルアップをするためのアンテナを張りながら、目の前の事をたんたんとやっていると、より本質的、より根源的とも言える現象や、まだ、まだ、法則とも言えないない、様々な森羅万象の一部に出会うことがある。
私は、高校生の頃から、「全力で走るとき、オールアウト(もうダメ状態)直前に身体が呼吸を下の方から吸い上げる動きをするとオールアウトせずにもう一段、レベルを上げて動き続ける事が可能となる事を経験していた。
この現象は私だけでなくある程度のレベルに達した中距離ランナーなら誰でも経験している事。しかしこれは、私の出会うべきメソッド西野流呼吸法の根幹[足芯呼吸」をなすものだった。この動きの生み出す生命エネルギーは大変と言うより、非常に強力だ。しかし、「ニュートンの万有引力の発見」と同じ様にあまりに当たり前すぎてその事に本気で注目し、その、エネルギーの可能性や条件に驚く者は少ない。

もうひとつ、毎年、量、質のハード期にメンタル、フィジカルな大きな負荷が私と生活を共にしていたジュニア選手達にかかるが、彼らにとって、その「自己の壁」とも言うべき、大きなストレスをしっかり振り切って、突き進んで行くのは経験、知識共、豊かな高校生ではなく、中学生達でもなく、小学生のTやMだった。
私は一年目に、この事を経験したとき、彼らが幼いから解らないのではないか?と思っていたが、2年目、三年目と年を重ねながら、その事に注目して行くと、幼いからではなく、自己の置かれた現実を突き破る、大事なサムシングであることに気付いた。これはジャンルとしたらメンタルだが、精神力という概念では表現出来ない。

私は上記の二つの現象を私がスポーツに求めていた核になるサムシングであり、やっとその事象をピックアップ出来た事に少しの安心感を覚えていた。しかし、それが何であり、どうしたら、その、大事なサムシングをトレーニングする事が出来るのか?捉えたくなった。まだ、残念ながら、それが、古来、武道で言う「呼吸力」であり、呼吸法 気功で言う生命エネルギーのなせる技、であることを知らなかった。

私のお世話になっていた、ビッグスポーツでは、スポーツクラブや教室のヘッドコーチ達に、その頃、スポーツがらみのそのジャンルのエキスパートというべき人々を講師にして、本格的に知識教育を始めた。社員も数百人になり、私が入社した頃とは大分様子も変わっていた。
私と競泳を共にしていた教室の選手達も順調に成長していた。

一方、私、自身はと言うと、フィジカル、メンタルに渡る大事なサムシングに何かと気持ちが、移動してしまう。「このままにして捉えずにいたら後悔するぞ!」と言う何かが時々、思いや、言葉を越えて突き上げてくる。

当時の気持ちは、この様であった。
「より、私達の動きを支える本質的なものは?」 これってわかったらすごい! でも、わからなかったら?

そして、「この思いを行動にして、思いっきり追いかけ、求めたい自分と」同時に、「今の自分を守りたい弱さが頭を持ち上げて来る!」 どうやら後ろ髪を引かれているらしい!迷っているとそんな事件がどんどん起こってくる。勝利の神様は後ろ髪がない!!
でも、自分に見える景色は心細さと、一人だけで飛び込む、なんとも言えない寂しさだけ、他には何もない!

こんなときは、後ろ髪を引いてくれる事件も続け様におきる、もっと前に行きたい自分も居る、そんな、推進力のない、前に行くのか、後ろに下がるのか?渾然一体の自分が居た。先ず、自分が求めていることが、呼吸法 気功の世界であるのか?この事すらも、見当がつかずに、心細さと不安の同居した呼吸法 気功の世界へのスタートになる。

自分の為に、捉えたい事やもののために生きよう! 水泳教室でのあるマネジメント上のトラブルがその様に自分を突き動かしてくれた。やっと、いまの自分に答えを出すことが出来た。
少しの安心と、明確な答えのない大きな不安。気(呼吸法 気功)の世界へのスタートはそんな、自分の弱さが前面に出る。歯切れの悪い出発となった。
[10年あれば・・・]自己の声はそんなふうにつぶやいていた。

今、考えると石川県水泳協会 石川国体強化コーチ。
日本スイミングクラブ競技会 北陸支部 強化委員、                    普及委員

の肩書きを捨てるのもまだ、勇気が要った事だった様に思う。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 21年9月20日 背景は奥能登、風無漁港

21年9月20日 背景は奥能登、風無漁港

カメラの調整ミスではありません。気 生命エネルギーは条件次第で写真に映ることがあります。

この頃、心理学プログラムの現場での驚き。
コンサルT氏 人間の感性ってスゴイ!

約5年強の短い時間がったが、スイミング教室の現場での生活は、頑張り過ぎた様だ。身体のケアはやっていたつもりだったが、当時、スポーツは身体に溜まったストレスの解消になると言われていたし、現在もその様に考えられている様だが、残念ながら、ジョギングや水泳はそれほど大きくストレス解消に役立ってはくれなかった。スイミング教室を辞めた後、ストレスの蓄積が大部あった様で、しっかり時間をとった休養を身体は求めていたのを感じた。

この時期に二つの事をやることにした。
一つは魚釣り、海で魚達と時を共有すること。
そして、もう一つはトライアスロンの準備で弱点のランをフルマラソンで3時間を切ることだった。月間500km程度のゆっくりしたLSD(ロング・スロウ・ディスタンス)が中心の練習を行った。ゆっくり10〜20kmを走ると身体が活性化して、溜まったストレスの少しではあるが、解消になることを感じた。
また、私の育った群馬とは、大部生活、文化の違いのある能登地方の原寸大の景色、や人の生き様まで、津々浦々を、ゆっくり走り廻ることで、新たな景色が観察出来たりと、走る楽しみも様々だった。

そして、何より、生活の中心に置いたのは、海での魚釣りだった。私は、16フィートの和船タイプのボートを2年前に購入し、2年目の春、夏、秋、冬、を経験してからの、ほぼ、1年だったので大部、実践的なミニ漁師に成長していた。約3分の2年強の短い時間だったが、海に出るのが、本当に楽しかった。
今、思うと、海は山、同様、生命エネルギーの強い場なので、そこで物にとらわれずリラックスをすると、大いにストレスの解消になって居た様だ。

もう一つは当時フルのトライアスロンにチャレンジしようとしていた。スイムとバイクは当時の全日本のトライアスロンのレベルに達していたので、ランのスピードアップがキーだった。月間400〜500km位を余裕を持って走り込んで、走る身体づくりをする事。この二つをこの時期にやることにした。

とにかく、狂った様に海に通った。ほとんど毎日だった。幸い5〜12月の期間だったので、寒さと出会ったのはわずかだった。
外浦は天気のいい、穏やかな日に磯や潮通しのいいポイントに入った。
ボートの置いてある七尾湾では、三角波は立ったが、台風が来た日も海に出た。当時七尾の火力発電所の建設工事中で東、北、西側が海面から、2mくらいの堤防があり、そこがポイントになった。風による波でフナムシや磯ガニが海面に落ち、餌となり、沖に居る、大物が沢山、火力発電所の堤防では釣れた。
しかも、獲物のうようよしているポイントにボートで工事中の現場の堤防の上に登り、一人で攻め放題なのだから、台風が来た時の火力発電所のポイントは本当に、楽しかった。

台風の中で魚を釣っている姿を見れば、きっと気でも狂ったと思われるが、「沢山、釣れて楽しい。」魚達の向こう側に見え隠れする「自然の摂理」の偉大さを目の前の魚達の動きを通じて、実感したことが何より財産である。
「沖に居るはずの大物が、なぜ、この風が吹くと、何故こんな数メートル浅場で餌にありつける事を知っているのか?・・・。」身体を通じた様々な問いかけが、楽しさを増幅していった。

そして、こんな事を経験した。それは、夜のイカ釣りでのことだった。
七尾南湾を出ると毎年、アオリイカの来る瀬がある。湾の出口から500m位の所だ。この瀬でアオリイカを釣っていた時の事。この、ポイントで釣るのは2年目の時だった。アオリイカはいつもこの瀬の一番浅いところから、少し北へ寄ったところが、いいポイントになる。
この、いいポイントを探す為、この瀬の一番浅いところを日の沈む前に確認して、風景の確認をする。山合わせというが、それを三方向に行うと、位置が特定出来る。
そして、夕闇の中で、沖から岸を見ながら、イカ釣りを始める。

一年目はどうとも感じなかったが、2年目それは起こった。辺りが闇に包まれた頃、良いポイントにさしかかると、北側に能登島の野崎の漁港のランプ、南側に白鳥漁港の灯台が見えるが、同じ、中秋の名月の時、月の位置も同じ位置にさしかかった頃、一年の時間が経過しているのにそれを感じ取れない、時間が去年から動いていない様な錯覚がおきた。ほとんど重なる景色、吹いてくる風も何か同じ様子。月も全く、同じ月。
今と去年の違いがわからない!一年の経過はどこに行ったのか?去年からズットここに居たような錯覚に襲われる。
私達は太陽系に居る。太陽ー地球、そして月の運航。同じ、中秋の名月の夜6:30頃と時間を限定すれば、海上の位置も特定されているし、かなり似かよった場が登場するのも不思議ではない。ただ、それを経験したに過ぎないのだろう。
釣っているイカは去年からすると一代、下ったイカ達なのに!呼吸法 気功をやって、しばらくしたら、こんなことも有りそうと思える様になったが、当時は不思議な体験として、自然の摂理の一部と捉えるには、もう少しの時間と経験が必要だった。

私たちは、「自然の中で、生きているのではなく、生かされているのだ。」

とにかく、水泳教室の現場でくたびれていた頃、穴水湾のボラ待ちやぐらにあこがれていたが、ほとんどそれを実践してしまったのが愉快だ。一年弱のミニ漁師の体験だが、魚達を通して自然と強力に身体的に結びつけた経験は言葉を超えて貴重だった様に感じる。

この、一年弱のジョギングと海での魚釣りをしながらの休養だったが、ストレスはそんなに抜けた感じはしなかった。ビッグスポーツの水泳教室の現場での経験はかなり、身体をギリギリまで使ってしまったらしい。
呼吸法 気功の我が師、西野皓三先生は「自然と一体の身体」ということを言われた。この時の私は、海という、自然の場の力を借りて自然の中で、わずかではあるが、ストレスを身体の外に放出する心地良さを感じていたが、私達の呼吸法 気功の稽古の様にはならなかった。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 10年あったら、きっと出会える!身体の極限状態を超える時に現れる

10年あったら、きっと出会える!身体の極限状態を超える時に現れる
「精神力でも、筋力や持久力でもないパワーが何であるかが!?」
しかし、本物にはなかなか出会えず!

10年あったら、きっと出会える!身体の極限状態を超える時に現れる「精神力でも、筋力や持久力でもないパワーが何であるかが!?」
しかし、簡単ではではなかった。そして、出会うのは、まがいものばかり、本物には簡単に出会えなかった。よくて、半まがいもの、何と「この世はうそっぱち、とまがい物だらけ!」本物に出会えないまま、時間はあっという間に10年近い歳月が流れていた。

そんなふうに、身体の言葉とも居えない言葉に、つき動かされるようにして、水泳の現場を後にしたが、探している物が規制のものではないので、とにかく、見つけにくかった。先ず、最初に入った会社が、バブルともぶつかり、とにかく、目いっぱい使われた。
隔週休2日制は守られていたが、睡眠時間が2時間程度の日がほとんど。前橋の職場から桐生の家に着くと、夜中、2〜3時間眠ると、夜明け前に家を出て職場へ、桐生の駐車場で車に乗ろうとすると、まだ、明けぬ空に、月が出て、その、月に重なる様に雁なのか、鵜なのか、空を飛んで行く様子を毎日の様に目にした。そして、職場の前橋に近づくと、昇る朝日が赤城山にあたり、クッキリ朝日に映えて浮かび上がる赤城山の、その姿を毎日の様に見ていた。

一方、本当の探し物の方はと言うと、[超能力開発」を標榜する仏教をお世話になっている整体の先生から熱心に薦められ、それが、本当ならば・・・.。と入門ではなく、入信する。しかし、数年が経ち、周りの人たちを見ていると、少しは一般の人と、生きる軌道は変化している様にも見えたが、群馬の幹部である事務局長がガンでなくなったり、その宗派の管長が主催する伝法会という研修会で、仏教の極意である成仏法での呼吸法で、「息を60秒間吐き続られる様になれば成仏出来る。」ということを聴いて、教本に「丹田を意識して口から吐く息は出来るだけ長く吐くようせよ。」と書かれていたので、日々稽古をしていた。私は当時肺活量が7、400cct程度あったので、90秒から100秒は息を吐き続けることが出来た。しかし、私は成仏などしていない。
「病気にならない様にするのが、最低の修行だ。」と聴いていたが、その修行を指導する人がガンで死んでいる。[成仏法の核となる吐く息は60秒出来れば成仏出来る。というが私はとても、仏教の教える成仏した人格とは程遠い。」
当時私は、A宗管長は銀座にビルを買い商売のことなどより、もっと人作りをやるべきだ!と、同時にうさんくささを感じ、その仏教を後にした。

そして、ある夏の日、前橋の市民プールに行ったときの事だ。プールサイドに立った私が大きな窓ガラスに映っていた。仕事で睡眠時間も十分でなかったので、いつも眠かった。そして、今まで、見たことのない太ったと言うより、浮腫んだ窓ガラスに映った私が、可愛そうだった。
これでは、ミイラ取りが]ミイラになってしまう!  浮腫んでパワーダウンした私を見て、生活の建て直しの必要を感じ、実行に移した。当時、私は結婚したばかりだった。

まだ、まだ、私の捜していた、呼吸法 気功ジャンルの動きの神髄を捉える中で誕生した西野流呼吸法に出会うまで、には私自身、生きた人間の動きに関する観察、経験、知識が私達の呼吸法 気功教室のメソッドからは、かけ離れていた。捜していた呼吸法 気功に出会うのには、いま少しの時間が必要だった。

バイクトレーニング

バイクトレーニング

呼吸法 気功 本物に出会うまでもう一息、
生活の立て直しから、やり直しだ!の巻。

群馬に戻って初めての仕事、もう少し早く、気付けば、もっと早くメンタル、フィジカルともに、向上しながら目標に近づく仕事が出来たが、慢性的な睡眠不足で、「いつも眠い日々」を経験していた。
しかし、「身体のおおもとのパワー」という、探し物の方は少しずつ、向かうべき方向の見当がついてきた。呼吸法 気功のジャンルかも知れない?
とにかく、時代はバブルの真っ最中。私の居た会社は人材不足で、必要人員の半分近くで私達の販売の現場は動いていた。あまりにも、仕事の拘束時間が長いため、自分の時間どころではなかった。

自分の探し物の為に、仕事を選び直し、生活も立て直す必要に迫られた。
当時、マーケットが、まだ、形成中と注目されていたのが、住宅建築の業界。そこで、営業マンとして働きながらの自分の捜し物をすることにした。

眠さ一杯の身体で、採用面接に行ったら「すぐに、来てほしい。」ということになり、大事な生活時間のリズムの確保も大丈夫そうだったので、新米住宅営業マンが誕生する事になった。

ここ、2年くらい、身体をまともに動かしていなかった。時々、休日に軽いジョギングやスイム、バイク(自転車)にのってはいたが、とにかく、休日は、日頃の睡眠不足の解消に追われた日々でスポーツトレーニングどころではなかった。

住宅建築の業界は、私の居た、業界からすると、のんびりというより、ゆったりしていた。夜は遅くなったが、10pm頃、には家に居る日が半分くらいあったので大部早く、帰れる様になった。前日の仕事(夜の商談)の終わる時間にもよるが、朝、6時前後に起き、当時、前橋の荒牧町から敷島公園に行って、土の上でジョギングを楽しむ日々が続いた。
だんだん、走れる月間の距離も能登で走っていた頃に近づいて行った。地方のランニング大会にも仕事の休日が合えば参加した。2年目には目標とするサブスリー(フルマラソン3時間を切る力)の力もついてきた。トライアスロンのトレーニングに入ろうとした矢先、当時、アメリカ横断ウルトラマラソンで有名になった元、シンガー・ソング。ライターの高石ともや氏がランナーズという雑誌のアメリカ横断のウルトラマラソンの特集に私の愛読書として中村天風氏の「成功の実現」という本を上げていた。どんな書評をしていたか記憶にないが、とにかく読んでみたくなり、出版社に注文をした。呼吸法 気功ジャンルの書物との出会いだ。
この頃には、身体も大部、走れる様になり、休日には、富士見の自宅から、赤城県道を上り、大沼を一回りして45〜50kmの距離、標高差1,000mを無理なくランでこなせる様になっていた。

しかし、中村天風氏の「成功の実現」は私にとってインパクトが大変強かった。他にも「盛大なる人生」「心に成功の炎を」をいうタイトルの500ページ程度の3冊の著書があり、それらが皆、気を習得すると人生が大きく変わることを、天風氏が熱っぽく語っていたのに、共鳴した。そして、そこには、中村天風氏がカリアッパというインドのバラモンについてヒマラヤ連峰の一つカンチェジュンガの麓で呼吸法を修行する様子が生々しく書かれていた。呼吸法 気功との初期の出会いだ。何度も繰り返し読んでいると、トライアスロンの中に私の捜し物はないことを直感した。
とりあえず、天風氏のやれという事をやってみた。クンバカ、安生打座。毎日、二時間程度はやってみたがほとんど効果は感じられなかった。だんだん「?」が頭をもたげて来る。私のやり方が悪いのだろうか?・・・。
天風氏の様に出家して、トレーニングする必要があるのか?いろいろ思いが巡ったが、結論は出ず、気の習得も進まなかった。

住居も現在居る富士見に移り、リズミカルな仕事とトレーニングを繰り返す日々となった。あの、眠さと疲労感の日々と決別したことが、嬉しかった。
ここ、西峯の窪のあたりは、赤城山の小さなエネルギー
スポットが幾つかあるところで、ここで生活するだけで日々の生活の疲労感が身体から離れて行く感触もあった。平地はほとんどないが、走り廻っても、同じ様な感触はあった。朝のジョギングが一層、楽しみになった。

中村天風氏の安生打座での大事なポイントとなる感触がウエイトトレーニングで感じることが出来た。
何も考えず、居るだけの自分。それは、スクワットを限界となる重量で行った時だった。
余裕のある重量で行うと、頭の思考は動くが、「身体に余裕のない重量で行うと、雑念は消え、静かな世界が登場する。」
この時間、思考という概念が身体から離れてしまっている。しかし、少しでも気持ちを重量を支えることから、離すと身体はウエイトに潰されてしまう。呼吸法 気功の世界でいう「身体を開く」というという現象が起こる。何度やってみても、その事は起こった。安生打座での中村天風氏の言っていた境地とでも言うべき事を、コンディションは違うが、体感出来た事を喜んだ。
この頃から、「身体を仕上げたい}というメッセージの様なものが身体から、時々湧き出て来る様になったのを覚えている。

身体のトレーニングはトライアスロンから、ウェイトトレーニングへと移っていった。そして、「空の世界」をウェイトトレーニングの世界で実感出来たのも面白い経験だった。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 住宅営業マンの観察、「人には命の運び方、運命」
が有る様だの巻。

住宅営業マンの観察、「人には命の運び方、運命」
が有る様だの巻。

住宅営業マンをやっていて、大変面白いことに気がついた。というより有るレベルの営業マンには、共通認識になっていることがあった。これは呼吸法 気功の大切なテーマの一つでもある。命の運び方、運命に関しての事だ。

ある住宅展示場の、あるモデルハウスのお客さんを観察すると、どの営業マンのお客なのかが解るということだ。私もこの事を聞いてから、展示場を訪れるお客さん達と営業マンを観察するようになった。やはり、共通の価値観、共通の雰囲気、雹通の癖、共通の好み、など、など・・・。
色々と感じ取る事が出来た。なんだ!営業マンとどこか共通のところがあって、共鳴したり、共感したりして、住宅という高額商品の販売が成り立つのか?!と感じた。
こんな営業マンがいた。

ある、根暗な営業マンがいた。そのお客さんは近隣との住宅建築を巡るトラブルで不幸なことだが、焼身自殺をしてしまった。そして、その翌年、又、その営業マンの別のお客さんが、同様に焼身自殺をしてしまった。彼は度重なる事件に、大変ショックで当時、しばらく、住宅を売る意欲が湧かず、新規のお客を開拓出来ず、時を過ごしていた。
また、大変ねちっこく、細かい性格の営業マンがいた。彼のお客さんに契約直前から、住宅完成後まで、毎週、日曜日に住宅展示場に来て、半日、その、営業マンと話をしに来る、おかげで担当の営業マンは、しばらくの間、新規のお客さんの接客が出来ずノイローゼ気味だった。
いずれのケースにしろ、本人にとっては、拷問の様なショッキングな事件だったはずだ。さらに、私がこの業界を去った後も、同じ様な経験を重ねているだろう。運命とはなかなか、厳しいものを本人に突きつけて来るものだ。

私は、とりあえず、新しい生活の基盤の世界に根を生やさなくてはならなかった。そこでは、何が安住のポイントだったか?それは当たり前の事だが、住宅を売ることだった。そこで、会社の研修で「トップセールスになれ!」「良いこともいっぱいあるぞ!」と言われたので、その、トップセールスマンになってみる事にした。そして、入社して9ヶ月目に当時、1、000人弱居た、営業マンの中でトップセールスになった。ある、全社的なコンテストものの2月の締め切り日に一日に5棟の契約を取り、全国トップセールスになったが、その日から、4日間、大熱を出して寝込んだ。「社長は熱が下がるまで、気にせず、ゆっくり休め」と言ってくれたが、5日目から契約してくれたお客さんから、問い合わせが来てまだ、熱が下がらないまま、出社し物件のフォローに東奔西走する事になる。約半年の間、休みはほとんど取れず、昼食、夕食は運転し、移動しながらとる羽目になる。またしても?探しものは大丈夫か?不安が脳裏をかすめる。
その時、中村天風なら、こんな時どうして居るだろう?などと、思いを巡らしていたら、これって自分の弱さだ!「こんな弱い物腰で捜したって、目の前にある物だって気が付かずに通り過ぎてしまうぞ!」と叱りつけられたような気分になって、自分を取り戻したのを覚えている。ポイントは呼吸法 気功の私の師西野皓三先生の言われる「ベストアイデンティティ(最優先事項)は何?これがはっきりしていれば答えは、自分なりに、自分の作っている環境なりに出てくること知り、自分を恥じた。

気 呼吸法 気孔研究会 廣川隆志こんなことあったよ。 トップセールスは時間に余裕がない

 トップセールスは時間に余裕がない、
 2番、3番に徹してウェイトトレーニングを・・・
 そうしたら・・・・

念願の会社や社長が喜ぶトップセールスになったが、またも、肝心な「探し物」に影響が出てしまった。ボーナスも入ったので、車を一回り大きなものに代え、携帯のプレージャーボートを購入するなど、物のレベルでは多少、欲しいものを購入出来たが、なにせ、時間が手一杯、毎日が移動と打ち合わせの日々になってしまった。その上、食事は昼、夜と、ほとんど、移動中の食事、ひどいときは、運転しながら、コンビニで買ったもので、済ますことが、何日も続いた。そこで、今、何が大事か?整理した。なんと言っても、「探し物」を探し出すことが、「今の自分にとって大事な事であった。」探し物とは、気 呼吸法 気功の方法論、「気 生命エネルギーを捉える方法論」と言うまでに具体的になっていた。

そこで、不本意ながら、トップセールスは止め、2番、3番目のセールスに甘んじながら、気 呼吸法 気功の方法論をさがすことにした。トップセールスになって、目一杯多忙だったのは4ヶ月位で収まったので、しっかり、自分がよしとする生活を構築することにした。

朝、富士見の西峯周辺のジョギング、6〜10km。週3回ウェイトトレーニング、全身を3パーツに分けて、スーパーセットで。住宅営業マンはメンタルは異常に使うが、身体をほとんど動かさない。トレーニング環境としたら、決して悪くはない。

しかし、この環境で4年が過ぎた頃、困った問題が、身体に起きた。スクワット180kg、ベンチプレス130kgが出来る様になった頃、である。 左手の握力が低下し始めたのだ。私達の身体には、伸筋と屈筋があるが、上体の屈筋群をトレーニングする時、握力に大きな負荷がかかる。もう40歳近くなっていたので、故障予防の為、フックの様な補助具がウエイトトレニングの器具にはあったので、それで何とかなると思っていたが、そんなことでは、解決は出来なかった。左で70kg位あった握力が半分くらいまで落ちてしまった。 しょうがないから、トレーニングのテンションを下げて実施することにした。会社に向かうドライブ中、左手を見たら、むくんでいた。なんとも言えない失望感がよぎったのを覚えている。今、思えば身体の老化現象でしかなかったが、周りを見回しても、私と同じ様な現象が現れている同世代の友達が何人もいたので、残念だと思ったが、今度は私の番か?という諦めに似た気持ちも芽生えていた。左肩胛骨上部から肩、腕を通って手に至る、鉛色の鈍痛のラインが身体にいつの間にか誕生していた。これが日増しにハッキリと姿を現し、25年近いウエイトトレーニングのキャリアの動きを奪って行く。なんとも言えない、絶望の様な気持ちが日々芽生えてくる。

そんなある日、休日の前日のトレーニングを終えて、ビデオショップに立ち寄って見たいビデオをチョイスしていた時のことである。「気」というビデオが目にとまり、何本かのビデオと一緒に借りた。自宅で見たら、奇妙な光景が目に飛び込んで来た。人が手も触れずに、跳んだり、体に触れるだけで、激しくもんどりうって弾き跳ばされてしまう光景だった。西野浩三先生とその弟子の方達の、まだ、組み手と言われた頃の、気 生命エネルギーの交流の様子だ。掴みかかろうとする者。殴りかかって行く者、飛びかかって行く者。みんな、もんどりうって跳ばされ、倒れてしまう。表情は苦しそうでもある。

なんだ!これは!! 私は人間の動きについては理解してきたつもりで居た。しかし、この、気 呼吸法 気功の気 生命エネルギーの現象については、何が起きているのか?全く理解することが出来なかった。ただ、ビデオの登場人物達のアクションが偽装でないことだけが解った。ただ、ただ、ビデオをコマ送りして、自分の目でこれって何が起きているのか?気 生命エネルギーは爆風の様に伝わるのか?どんなふうに伝わるのだろうか?いろいろ推測したが、ピンと来なかった。

この、西野流呼吸法の「気」のビデオの中で、女優の由美かおるさんが基本と呼ばれる呼吸法の動きを紹介していたので、それを毎日一時間やってみることにした。

この時、気 呼吸法 気功の神髄にせまる方法論、「探し物」に出会ったという実感は、まだ、全くなかった。いったい、本物かどうか?を確認したいという気持ちで日々の基本の気 呼吸法 気功の動きを実践して、どんな結果が出るのかを確認したくなった。まだ、後に、この方法論をベースにした生活が待っているとは、まだ、考えも及ばなかった。